ゴーダ経

シャカ族の在家信者では、知名度、地位ともに筆頭に来るのが、マハーナーマです。その名も「大名」の意ですから、本当の固有名称ではなく、シャカ族の王という意味での呼称だったのかもしれません(我々日本人が、今上天皇を「明仁(天皇)」などと個人名に基いて名指しするのをはばかり、「(天皇)陛下」と称号でお呼びするのと同様に)。彼が預流者であったことは有名だったようです。出家し真っ直ぐに修行に向かうお坊様方は、僕にとっては尊くかつ遥か遠く、眩し過ぎて直視できないような存在ですが、世俗人として、マハーナーマには色々と響くものを感じます。

そのマハーナーマが、同じシャカ族のゴーダに、いきなり問答をふっかけるのが、ゴーダ経です。

「ゴーダ君、他人を見て、その人が預流果に達したと判別できる、必要十分条件となるポイントはいくつあると思う?」
「3つのポイントです」
「その3つのポイントとは?」
「仏弟子(信者)がいて、その人が、仏陀を信仰し(仏帰依)、仏法を信仰し(法帰依)、仏弟子団(仏僧)を信仰する(僧帰依)。この3つのポイント(三帰依)を満たせば、その人が、預流果に達していると判別できます」
「ではマハーナーマ、あなたは、他人を見て、その人が預流果に達したと判別できる、必要十分条件となるポイントはいくつあると思うのですか?」
「4つのポイントだね」
「その4つのポイントとは?」
「仏弟子(信者)がいて、その人が、仏陀を信仰し(仏帰依)、仏法を信仰し(法帰依)、仏弟子団(仏僧)を信仰する(僧帰依)。さらに、禅定の下地となる五戒が身に付いている。この4つのポイント(三帰依+五戒)を満たせば、その人が、預流果に達していると判別できる」

ゴーダ君もしかし、相手が偉い「大名」様だからといって、世俗の問題ならばいざ知らず、仏教に関することで「はい、そうですか」と簡単に譲るわけにはいきません。彼には自分の三帰依の揺ぎない念は本物だという確信があるからです。

「ちょ、ちょっと待ってください。釈尊ならば、正しい判別方法をお知りでしょう」
「では、ゴーダ君、釈尊の所に行って、この件について相談しようではないか」

二人は、釈尊の所を訪れると、二人のそれぞれの「他人が預流者であると判別するポイント」に関する見解についてと、それで釈尊の元を訪れることになったという経緯を、説明します。

ところがここで、マハーナーマの“フライング”が起こります。

あらましを説明し終ったかと思うと、マハーナーマ、釈尊に向かって告げます。

「尊師よ、ある一つの物事を巡って、師一人と、師以外の全ての比丘との間で意見が異なっていた場合、私は師の意見の方に従います。このように信仰していることをお知りおきください」
「尊師よ、ある一つの物事を巡って、師一人と、師以外の全ての比丘・比丘尼との間で意見が異なっていた場合、私は師の意見の方に従います。このように信仰していることをお知りおきください」
「尊師よ、ある一つの物事を巡って、師一人と、師以外の全ての比丘・比丘尼・男性在家信者との間で意見が異なっていた場合、私は師の意見の方に従います。このように信仰していることをお知りおきください」
「尊師よ、ある一つの物事を巡って、師一人と、師以外の全ての比丘・比丘尼・男性在家信者・女性在家信者との間で意見が異なっていた場合、私は師の意見の方に従います。このように信仰していることをお知りおきください」
「尊師よ、ある一つの物事を巡って、師一人と、師以外の全ての比丘・比丘尼・男性在家信者・女性在家信者・天神・魔神・梵天神・出家者・人間・天使との間で意見が異なっていた場合、私は師の意見の方に従います。このように信仰していることをお知りおきください」

どわーっと怒涛のごとく、釈尊以外のこの世の全ての存在を敵に回しても、釈尊の意見に従うと、強烈な信仰告白をするわけです。釈尊が審判だとすれば、審判を懐柔する“暴挙”に突如打って出た──というのが、まあ、第三者がこのエピソードを読む分には、思ってしまっても仕方ない流れです。

そもそも、三帰依が必要条件となる点では、ゴーダ、マハーナーマ両者間では一致していて、それに4つ目のポイントの、「五戒も必要なのかどうか」が論点となるはずだったのではないでしょうか?

マハーナーマは、その三帰依の三点セットの型をいきなり崩してきて、仏陀と彼の説く仏法にあくまでも従い、僧帰依については、仏帰依と法帰依に調和しない場合は省みなくてもよいと(も受け取られるような意見を)、堂々と言い放ったわけです。

仏典を、字面の情報としてしか、読み取れない人の場合、結論として「三帰依だけで必要十分条件とするか」「三帰依プラス五戒で必要十分条件とするか」という、結論情報だけを追います。すると、このマハーナーマの突然の“フライング”的信仰告白と、次の釈尊の短い応答、ゴーダの感想で締め括られる、三者のやり取りの流れが、よく見えてこないでしょう。

これを受けた釈尊は、審判として、判定を下すようなことは、全くしません。ただ、静かに、ゴーダに確認のために意見を求めるだけです。

「ゴーダよ、マハーナーマに、何か言いたいことはありますか?」

ゴーダは、何も反論することはないと言い、ただ、「素晴しいことです。ただただ歓喜するばかりです」と気持を表し、この短い経典は幕を閉じます。

この三者の間で交わされた最後のやりとりは、いわゆる「不立文字ふりゅうもんじ」的なるものと言えると思います。禅かぶれの人がよく振りかざしたがるように何か形而上的な摩訶不思議な概念を悟って不立文字という意味ではありません。ゴーダがなぜ、これで納得したのでしょうか? それがわからない限り、この一連の流れは、どうも腑に落ちないものとなるでしょう。またそういったことを何も明記せず、このあっさりした、三者のやりとりの様子だけで済ませている、この経典の記述方法の物凄さです。不立文字、「わかる人はわかる(伝わる人には伝わる)から、これでいいのだ」という(テーラワーダの)経典伝承者の明確な意図です。他人が預流果かどうか判別する方法の話など、もうどうでもよくなってきて、ただこのやりとり(とその記述スタイル)に圧倒されるばかりです。聖者たちの間で交わされるやりとりというものが、かくもあるものなのかと。

釈尊はもちろん、正自覚仏である阿羅漢(聖者)ですし、マハーナーマは有名な預流果(聖者)の在家信徒です。ゴーダに関する情報は少ないので寡聞にしてあまり知らないのですが、どうやら彼もマハーナーマ同様の預流者とされているようです。おそらく、彼は、このエピソードの始まりの時点において預流向(預流果の予備軍の段階)であり、終わりの時点では、預流果(聖者)に達していたのではないかと思います。

蛇足:結論情報的には、三帰依は、預流向の必要十分条件であり、三帰依プラス五戒は、預流果の必要十分条件と言えると思います(これらはあくまでも外部から他人の様子を見て客観的に判断する時の目安であって、当人が預流果を悟ったかどうか云々、こうすれば悟れる云々とは基本的に別の話です)。とはいえ、単なる結論情報面でも恐しいくらいに整合性が整っているのがわかります(実は、マハーナーマの意見も、三帰依を少しも損なっていません。その意見に従うかどうかという点だけであって、僧帰依をないがしろにする話とは別だからです)。

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